金沢−戦災で焼けなかった伝統の町と職人学校 武藤清秀
戦災で焼けなかった金沢と市内の現状
金沢の市街には日本海に注ぐ犀川、浅野川という程よい幅の二本の川が流れている。その中間にある金沢城を核に、二つの流れに囲まれた部分と、その外側に位置する寺院群及び旧街道沿いが、凡そ江戸時代初期に成立した城下町で、現在の市街地と重複する。城下町時代に計画された放射状の旧街道や等高線沿いの曲がりくねった道が、戦災に遭わなかったことで現在に引き継がれている。
犀川の南側は寺町台地と名付けられた河岸段丘で、そこで育った私は、ものごころがついた頃から旧市内をいつも少し上から眺めていた。この上からの眺めで、町が急速に変わり始めたと感じたのは、昭和三十年代の終わりから四十年年代にかけてだと思う。それまでの金沢は地上からはもちろんのこと、上から眺めてもとても美しい町であった。中心部に中高層の建物が建つのと同時に、その周りにも水平屋根の建物が多くなり、上から見て美しい屋根の連続性が次第に消えていった。
歴史に「もし」はないというが、それでも、もし昭和三十年代初めの旧市内が、面的にそのまま残っていたなら、高度な技術を以って造られた美しい木造都市として、今頃世界遺産は間違いなかったと思っている。このことは金沢に限らず、戦災を受けなかったなら、日本中の都市でその可能性があったのかもしれない。
一方、戦災を契機に新たな都市開発が進む他の都市と比べるあまり、「戦災を受けなかったのも災害である」、あるいは逆の意味で「一周遅れのトップランナー」という言い方も過去には聞かれた。
昭和四十三年四月、全国の自治体に先駆けて「金沢市伝統環境保存条例」を制定。過去数世紀に渡り大きな戦火や自然災害を受けなかった環境を、遺産として活かしつつ、これと調和した近代都市造りを目指す方向に舵をきり始める。
平成六年四月には、「金沢市こまちなみ保存条例」を制定し、伝建地区のようなまとまった面としてではなく、一本の線として残っている町並みにも光を当てる。こまちなみの「こ」は、「歴史的風情を残す町並み」という「古」と共に、「ちょっとした小さな町並み」という「小」の意味を併せ持つ。その他金沢市の都市景観、伝統文化を支援するまちづくりに関する施策は数多くあり、それに伴う補助制度も手厚いものがある。
戦災で焼けなかったとはいえ、旧市内に残る戦前に建てられた建物は、平成十一年で一万一千棟弱、同十六年には約九千五百棟であることが金沢市の調査により分かっている。この五年間の平均では、実に年間二百七十棟余り壊されているのが現状である。この傾向に歯止めをかけるため、行政を始め様々なグループが活動を続けてはいるが、決定打はまだ出ていない。
金沢職人大学校の設立と紹介
金沢に残る伝統的な建物を維持していくために、また伝統工法により建物を新しく作るためにも、その技量を持った職人がいなければならない。高度な職人の技の伝承と、匠の技に対する社会の理解と関心深めることを目的に、平成八年金沢市の職人育成事業の一環として社団法人金沢職人大学校が設立された。

金沢職人大学本科の構成
○本科
本科は「住」を中心とした、石工・瓦・左官・造園・大工・畳・建具・板金・表具の九科で構成される。定員は大工科が十名である他、各科五名の合計五十名である。就学期間は三年間、研修は原則として月四回、主として夜間に行われる。
入学資格は、基本的技能を既に修得している中堅以上の職人で、概ね三十才から五十才位の者。また入学者の募集は三年毎、学費は無料となっており、これらの点が他の技能学校と比べて大きな特徴となっている。
研修内容は全員必修の教養・体験講座と各研修科別に開講する実施講座があり、伝統工法に関するより深い知識と技能の習得を目指している。
○修復専攻科
平成十一年には、本科の修了生を対象に建築士及び金沢市文化財関係職員が加わり、本校の専門課程に位置付ける修復専攻科が開設された。文化財建造物及び歴史的建造物の修理・復原などに要する専門知識の習得と技術の研鑽、そして金沢市及び周辺での街づくりに貢献しうる人材の育成を目的としている。
就学期間は本科と同様三年間、学費は無料。研修は講義と実習があり、原則として月四回、その他に見学研修が加わる。
修復専攻科の実習では歴史的建造物の調査、修復、解体移築を手がける。これまでの実績として、一期生による「旧油谷家あずまや及び中門修理工事」(数寄屋)、「旧涌波家保存修理工事」(町家)がある。また、二期生による「旧永井家」(武士系書院)、三期生による「旧平尾家」(武士系住宅)も進行中である。
実習では専門の職種を問わず、全員が同じ内容を体験する。例えば実測調査の野帖を基に、畳屋さんが平面図や立面図を作成したり、建築士が土間の三和土を施工するというふうに。
なお、修復専攻科の修了生には、金沢市長から「歴史的建造物修復士」の称号が与えられる。

実習であずまやを解体

柱の根継ぎ

あずまや及び中門(移築後)

旧涌波家修理前

工事中通行人も興味を示す

旧涌波家修理後

修理後ワークショップにも活用
○子供マイスタースクール
職人の技の伝承は、何も職人同士とは限らない。その技に間近に触れることで、子供達にもその心は伝わっていく。
平成十四年には、職人の技の体験や見学を通じて、職人の世界の楽しさ・厳しさを体得し、将来の職業選択の一助とするため、子供マイスタースクールが開校した。
期間は二年間。原則月二回、土曜日の午後実習が行われる。科目は本科と同じ九科、小学四年生から中学一年生までが対象である。内容は木製ベンチ、畳の敷物、衝立、鬼瓦、飾り皿(銅板)、勾玉の首飾りなどを製作する。その他、土壁塗り、雪吊りなどの体験、金沢城や寺社の見学、名工の講話などもある。現在三期生十五名が、講師である職人さんから教えを受け、実習に汗を流している。
○謡曲教室
「空から謡(うたい)が降ってくる」というほど謡が生活に根付いていた金沢では、何かの折につけ謡曲が謡われる。職人にとっても、座敷開きなどの宴席では、謡曲は欠かせない。
職人大学校では、在籍者を対象とした「職人さんの謡曲教室」が開かれ、加賀宝生の師匠から月二回の稽古を受けている。現在七期生十一人が在籍。毎年三月には、石川県立能楽堂の舞台で発表会が行われ、それまでに習った五曲が披露される。
○お茶教室
謡曲ばかりでなくお茶も盛んな金沢には、江戸期の流れを受け、茶室や数寄屋志向の建物も多い。そのような建物に関わる職人は、茶事も素養とすべきということで、今年度よりお茶の教室が開講した。現在二十五人が在籍。月二回の稽古の師匠も、茶事に精通した職人が務めている。
このように、金沢市職人大学校の活動は、樹木に例えるなら幹に段々枝葉が拡がってきている。職人、建築士、行政に市民の加わったネットワークが、将来金沢市の土壌に大きな根を張り出し、さらに大きな樹となることを期待している。
市民と職人との関わり
○出入りの職人
中心市街地に建つ、明治初期の町家を改修していた時のことだった。屋根工事を受け持っていた板金屋にある時意見を言ったところ、「わしは五十年前からこの家をみている」と凄まれたことがある。建具屋もその家と長い付き合いだという。こういった出入りの職人の居る家は、はやりのリフォーム詐欺にひっかかることもなく、メンテナンスの面では安心できる。
しかしその家に出入りしていた肝心の大工棟梁は、既に高齢で現役を引退していたため、私が設計監理者として工事を統括した。職人の高齢化、引退、代替わりにより、所有者との関係が薄れることはよくある。
古い建物を調査すると、当然問題のある部分が発見される。それが皮肉にも、後で直したり、増築した部分のせいであることが多い。例えば、床下換気の不良が増築によるコンクリート布基礎のためであったり、雨漏りの原因が後付けの屋根と既存部分との納まりの不具合であったりする。
修理や増築という行為には、当初作った職人の力量と同等か、それを上回る力量が要求されるようだ。設計もまたしかりである。やはり伝統的建物に関しては、確かな力量を持った職人が出入りすることが好ましく、そうすることで建物は生き永らえるはずだ。
○そして、地域に根ざす
市内の平入りの町家が連なる町並みに、突然異質な形状の屋根が現れた。金沢ではあまり馴染みはないものだが、私にはある地域に特徴ある屋根に思えた。案の定、その地域の方の設計であることが後で分かる。歴史的景観を残す地域では、郷に入ったら郷に従ってもらわないと周りが困惑する。
かつての町並みが美しかった理由の一つに、限られた土俵の中で、職人達が技を競っていたことがある。加賀藩において、江戸初期に定めた厳しい家作制限があった。身分により梁のスパン、造作、仕上にまで決め事があり、質素を第一にその制約のなかで仕事をしていた。
藩政時代の禁制は明治に入っても尾をひき、それを超え出すのはようやく明治期末から大正期にかけてであるが、それでも近隣との調和をはかって建てられていた。
職人が道具箱一つで身軽に現場へ向かい、仕事した時代があった。高速道路で日本中が繋がっている時代に古いといわれるかもしれないが、職人が歩いてでも行ける現場をできるだけ多く持つこと。つまり、近隣のコミュニティと密度の濃い繋がりを取り戻すこと。それが「持続する家とまち」に繋がると思う。

「金沢図屏風」より、江戸期の町並み
○さらに、古いものを大事にする
ご近所に住む年配の方が家の繕いをする際、リフォーム融資手続きのお手伝いをしたことがある。大正時代の小ざっぱりした住宅に夫婦でお住まいだ。比較的若いころ、周りの環境に惚れて購入したという。
周りの古い建物は随分建て替えが進んだが、「やはり年をとると、古い建物が落ち着いていい」といわれる。外観を小ぎれいに復原して、とても満足そうだ。朝早くから前庭の手入れを怠らず、古いものを大事にしている姿を見かけるといつも励まされる。
伝統工法で建てられた家を昔の工法で直すことのできる職人、あるいは伝統工法で新しく建てることのできる職人は、もうこの世にいないと思っている市民も多い。だが金沢において、それは誤解であるといえる。出入りの職人を持たない市民が、職人という専門家に伝(つて)がないということに過ぎない。
かといって、「職人は語るべからず、書くべからず。ただ作るのみ」と弟子の頃から親方に教えられてきた職人に対し、今風の営業や宣伝を期待することは酷である。また住宅メーカーの組織的な営業攻勢に太刀打ちできるはずもない。
世の中の趨勢は、いかに手間暇をかけないで、機能を付加し、当座の体裁を良くするかという方向にある。そんな中、我々建築士こそ職人の仕事を理解し、職人の活躍できる場を発掘して、所有者と結びつけることが大切だと思う。確かな職人とそうでない仕事人との差は、その仕事が「年月に耐えられるかどうか」にあると思うからだ。
失ったものを数えるのではなく、今後確かな仕事を一つ一つ積み重ねていくことで、古いものを大事にしていきたい。
------- 建築とまちづくりNo.346 2006年7月号-------